●第五十五世 策伝上人
戦国時代、誓願寺の第五十五世法主「安楽庵策伝上人」は、優れた説教師であるとともに、松永貞徳・小堀遠州らと親交を深めた文化人でもありました。
策伝上人は、ともすれば小難しくなりがちな「お説教」に、ふとした笑い話を含め、人々に分かりやすく、また親しみやすくお話になられました。またそれらの話を集めた「醒睡笑(せいすいしょう:八巻)」という書物を著し、それが後世、落語のネタ本となったことで「落語の祖」とも呼ばれ、それにより誓願寺も落語発祥の地として知られております。
当誓願寺では、毎年十月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、追慕の法要とともに奉納落語会を開催しております。 (日程の詳細は、トップページの予定表の長期間表示をご参照いただくか、直接当山までお問い合わせ下さい。)
●安楽庵策伝上人
天文23年(1554)、戦国の世に武将、茶人として著名な金森家(兄は後の飛騨高山城主・金森長近)に生を受けた。 7歳で岐阜県浄音寺、策堂文淑上人について出家、「策伝(さくでん)」の名を得る。
永禄7年(1564)11歳にして上洛、洛東大本山禅林寺、智空甫淑上人に師事して浄土教を学び、浄土宗西山流(西谷義)の法脈を相承した。 出家してもなお千石余の領地を持ち、天正5、6年(25、6歳)頃から約15年間、山陽地方に赴き7ヵ寺を次々に建立、再建した。 慶長14年(1609)56歳で美濃の名刹、 西山禅林寺派檀林立政寺を数カ月預かり、4年後の慶長18年(1613)、60歳で誓願寺法主に就任した。
茶人としても、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての著名な人であった。 古田織部正門であり、小堀遠州、松花堂昭乗ら織部系の人々と互いに親交を続けた。 「安楽庵裂」「安楽庵茶室」「安楽庵好み」「安楽庵釜」の呼称と共に策伝上人の名は茶道史上消えることはない。
文人としては、「醒睡笑(せいすいしょう)」が有名である。元和元年(1615)から同9年(1623)にかけて、自らの体験談、見聞録を出来るだけ面白く、さらに諷刺、教訓、啓蒙的な要素を附加して巧みに書き下ろしたものである。その滑稽の縦横なことは、まさに落語の教科書と称えるべきもので、その数々の咄は、落語中興の祖・烏亭焉馬を経て延々今日にまで及んでいるのであって、策伝上人が落語の始祖と言われているのは不自然ではない。 茶人・古田織部が、秀吉の「御咄の衆」(主君の話し相手となる老巧の士)であった という事実も、策伝上人という笑話の天才が生まれるに至る機智性の血脈を知る上で注目される。
「醒睡笑」を完成するやかねてより隠居の志あった策伝上人は塔頭、竹林院を創立し、境内にあった茶室、安楽庵(広島県、誓願寺に安楽庵好みと伝えられる八窓の茶室が復元されている)に入り、自ら安楽庵と号した。
寛永19年(1642)正月8日、89歳で示寂するまで19年間、竹林院を訪れる風流人は絶えなかった。 陰欝な戦乱の世でも常に明るい面に眼を向けて、楽天的に笑い続けることを長寿の妙楽とし、ことに風雅と戯笑に満ちた晩年における生活は、文字通り悠々自適の余生であった。
≪「安楽庵策伝和尚の生涯」 関山和夫著(法蔵館)より抜粋≫