女人往生の寺/浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺

 


 

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女人往生の寺

 

 

 

誓願寺では平安時代に、歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生されています。ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結び、その後、念仏して往生をとげました。

 

書写山を訪ねる和泉式部(誓願寺縁起第二幅) もうひとりは和泉式部。「誓願寺縁起」によると、和泉式部は、娘を亡くした苦しみから救われる道を求め、播磨の書写山・円教寺(姫路市)の性空(しょうくう)上人を訪ねました。

 

しかし性空上人は「今、あなたが求めるべきものは極楽往生の教え。京都八幡山の石清水八幡宮に現れられた大菩薩は、本地(ほんじ:神仏の本体)は、人々を苦しみから救うためこの世に現れられた極楽の阿弥陀如来です。石清水八幡宮に詣で一心に祈りなさい。必ず願いが通じるでしょう」と話されました。

 

石清水八幡宮へ辿り着いた和泉式部は、大菩薩の前で七日七夜、極楽往生の道を祈りました。八月中旬の明け方、八十歳ぐらいの老僧が宝殿より現れ告げました。「京都誓願寺の本尊は人々を苦しみから救うため、すべての行を修められた仏さま。そのお姿は春日大明神がお作りになったといわれる西方浄土、生身の仏さま。人々を浄土に導くため、仮のお姿として誓願寺に現れられ、毎日一度は必ず西方浄土に通われている。阿弥陀様に礼拝、称名し、一生を掛け極楽往生の道を祈りなさい」と告げ消えました。

 

和泉式部は誓願寺へ辿り着きました。そして誓願寺に四十八日の間籠もり、一日中ひたすら念仏を称え往生を願いました。ある夜のこと。七十歳程の老尼が仏壇に現れ「往生は、阿弥陀如来様にすべてをおまかせすればいいのです。南無阿弥陀仏と称えれば、慈悲の光に照らされ迷いの道が晴れるのです。女性の往生は、韋提希夫人が目の当たりに来迎を拝まれたことで証明されました。疑いありません。」と告げました。 こうして和泉式部は、髪を切り尼になりました。法名は専意と名付けられ、誓願寺の傍らに柴の庵を結びました。この庵は小御堂と呼ばれ、関白藤原道長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部ために一庵を与えたのが起こりといわれています。 式部は常に庵に籠り、朝夕に本尊阿弥陀如来さまに詣で、それ以外の外出は控えられ、 67代三条天皇の時代、長和三年(1014)3月21日、往生の素懐を遂げました。

 

時代は下りますが、誓願寺と「女人往生」を語る上でもうひとり、「松の丸殿」という重要な女性を忘れてはならないでしょう。

 

松の丸殿 誓願寺は天正19年(1591:安土桃山時代)一条小川(いちじょうこかわ:現在の上京区元誓願寺通小川西入る)から三条寺町のこの地に移転しました。その際、関白秀吉公の側室であった松の丸殿の助力を得て堂塔を再興し、慶長2年(1597)落慶法要が行われ、 完成した誓願寺は、京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千坪余には、本堂、開山堂、釈迦堂、三重塔、地蔵堂二宇、経蔵、鼓楼、方丈、鎮守春日社、十三仏堂、十八ヶ寺の山内寺院を擁していました。

 

松の丸殿は、秀吉公の聚楽第在中(天正15年9月~天正19年12月)に、現在の上京区西洞院通一条下る「讃州寺町」にあった屋敷に住んでいましたが。この場所は、一条小川にあった誓願寺のすぐ近くであることから、誓願寺移転前からの松の丸殿と誓願寺の関係が伺えます。移転前の誓願寺は、天正元年(1573)の火災により大変荒廃しておりました。おそらく松の丸殿は、和泉式部の女人往生伝説を傾聴され、誓願寺再興への思いを確立されたのであろうと思われます。

 

 

●和泉式部(いずみしきぶ) 生没年不詳

 

平安中期の女流歌人。越前守大江雅致の娘。初め和泉守橘道貞の妻となり、小式部内侍を生むが、冷泉院の皇子・為尊、敦道、二親王と熱烈な恋愛関係に陥る(「和泉式部日記」中で不倫の日々を語っている)。 恋の結末は二人の皇子の死で終わった…、とある。

 

その後、 藤原道長の娘、上東門院彰子に仕え、紫式部、赤染衛門とも交流。のち藤原保昌と再婚して丹後に下る。離別後の消息は不明だが、晩年は尼となり東北院内の小御堂(道長が法成寺の東北の一隅に、 和泉式部のために建てた。新京極・誠心院はこの小御堂に端を発するという)で過ごしたとも伝える。天性の美貌と歌才に恵まれ、情熱的な一生を送り、恋愛歌人としても有名。

 

 

●松の丸殿(まつのまるどの)

 

豊臣秀吉の側室。名は京極竜子。父は近江守護代・京極高吉。母は小谷城主・浅井久政の女(京極マリア)といわれる。

 

最初、若狭守護の武田元明に嫁いだが、明智光秀に与した夫が秀吉に殺されると、その出自と美貌のゆえに秀吉に召し出され、「京極さま」と呼ばれた。のちに大阪城・西の丸に屋敷を与えられると「西の丸さま」と呼ばれ、さらに伏見城ができるとその松の丸に移り住んだため今度は「松の丸さま」と呼ばれた。 醍醐の花見の「御輿の次第」では「政所殿」(正室・おね)、「西の丸(淀)殿」に続き「松の丸さま」と記され、側室の中では淀殿に次ぐ地位であり、醍醐の花見の際、秀吉からの盃の順番をめぐって淀殿と松の丸殿が争い、北政所が仲裁したことは有名な話である。 淀殿と松の丸殿は、側室になった時期も同じ頃といわれるが、淀殿の父・浅井長政と松の丸殿の母は姉弟であったから、二人は従姉妹同士であった。

 

秀吉没後は、兄(一説には弟)高次の近江大津城に移り、のち誓願寺に閑居した。元和元年(1615)、豊臣家の滅亡とともに秀頼の子・国松公(くにまつぎみ:秀吉の孫)がわずか8歳で処刑されるとその亡骸を引き取り誓願寺に埋葬した。  

 

寛永11年(1634)9月1日、70歳を越す長寿を保った後、西洞院の自邸で病死。法名・寿芳院殿月晃盛久大禅定尼。絶世の美女であったといわれる。 松の丸殿と国松公の墓は、もと誓願寺の山内寺院・竹林院にあったが、明治37年(1904)京都市東山区の豊国廟の境内に移された。

 

 

 


 

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